観劇レポ|青森オペラ「愛の妙薬」
2025年5月24日、弘前市民会館大ホールにて、ドニゼッティ作曲のオペラ《愛の妙薬》が上演された。今回の公演は、青森をオペラのチカラで盛り上げていこうと結成された地元の合唱団「コーロ・クアトロミッレ」に加えて、徳島、喜多方、南魚沼など全国各地から集まった合唱団が参加する、まさに舞台と客席、そして地域が一体となった特別な時間だった。


今回の公演で何より心をつかまれたのは、合唱の力である。 第1幕、村人たちが収穫の喜びを歌う《Bel conforto al mietitore》の場面。 舞台に登場した瞬間から、合唱団の声が波のように客席に押し寄せ、空間を一気に支配した。その響きには、ただ音量があるというだけでなく、明るさと素朴さ、そして圧倒的なリアリティが宿っており、まるでその村に本当に生きている人々の声のように感じられた。観客として舞台を“眺めていた”ところから、一気に舞台に“引き込まれる”体験となった。世界的な指揮者ズービン・メータは、かつてオペラにおける合唱の魅力について「合唱が全力で鳴ったとき、それがまるで物理的に“押してくる”ようでなければならない」といった趣旨の言葉を残している。

観客が椅子の背に押し付けられるような、そんな圧倒的な音響体験こそがオペラの魔法だと。まさにこの日、声の波が客席を包み込み、私たちはその魔法の只中にいた。第2幕の《Cantiamo》では、さらに声の厚みとエネルギーが加わり、音楽が喜びのうねりとなってホール中を満たした。その瞬間、オペラが持つ「生の喜び」を祝福する力を改めて感じた。 明るさのなかに人間の感情の奥行きが感じられる瞬間が幾度となく訪れた。合唱団の一人ひとりが、日々の暮らしの中で経験しているであろう笑い、涙、驚きやときめきといった気持ちを重ねながら、舞台の世界を紡ぎ出していた。歌声には人生があり、声には温度があった。その豊かな表現力が舞台にリアリティをもたらし、客席の私たちは気づけば物語の中に住む村人のひとりになっていた。

「合唱は群衆ではない。それぞれが感情を持った“個”の集合だ。そこにオペラのリアリティが生まれる」――オペラ作曲家ヴェルディがそう語ったとも伝えられている。まさにこの日の舞台でも、合唱のひとりひとりが役を生き、村人たちの感情が私たちを物語の中へと引き込んでいった。そうした合唱の世界の中に、ソリストたちは自然に溶け込み、時に導かれ、時に寄り添いながら演じていた。アディーナ役の竹村真実は、聡明で自信に満ちた女性像を鮮やかに演じながら、その奥にある繊細な心の揺れを丁寧に表現していた。
ネモリーノ役の中村祐哉は、愛に不器用な青年の純真さを真っ直ぐに歌い上げ、《なんと彼女は美しい(Quanto è bella)》と《人知れぬ涙(Una furtiva lagrima)》では、思わず息を飲むような静けさが客席を包んだ。その声には切なさと希望、孤独と高鳴る想いが同時に宿っており、心がじわりと温かくなる瞬間だった。ドゥルカマーラ役の白石陽大は、登場から舞台を掌握するような存在感で観客を笑顔にし、ベルコーレ役の市川宥一郎は威風堂々とした歌声で舞台を引き締めた。ジャンネッタ役の川並和香は、愛らしい表情と澄んだ声で合唱をリードし、華やかな彩りで客席を魅了した。

舞台の中心には、合唱団「コーロ・クアトロミッレ」がいた。全国各地から集まった歌い手たちが、遠く離れた土地で同じ演目に取り組み、弘前の地で一つになる――そんな奇跡のような出会いがこのステージを生んだ。演出および全国の合唱指導で公演を準備してきた武井基治に終演後に話を伺った。この瑞々しい歌声と豊かな響きはどこから来るのかと。武井はそれぞれの土地の声の個性を見極め、融合させることで、ひとつの村をリアルに舞台上に描き出すことができたのではないかと語った。
阿波踊りの土地らしい明るくはつらつとした声が魅力の徳島「コーロ・インダコ」、落ち着いた響きが印象的な喜多方「酒蔵オペラ合唱団」、実力ある歌い手が揃い、声のバランスにも優れた南魚沼「南魚沼オペラ合唱団うたのみ」、そして若さと勢いに満ちた弘前「コーロ・クアトロミッレ」――その声のモザイクが、観る者の心に確かなリアリティを与えたのだと思う。

この舞台を支えたのは、ただの舞台芸術ではない。さわかみオペラ芸術振興財団が全国各地で取り組む、地域とともに歩むオペラのかたち。地元の人々が合唱団を結成し、プロの指導を受けながら1年をかけて練習を重ね、プロのソリストと同じ舞台に立つ。この日、舞台に立っていたのは、ただの出演者ではない。オペラを通じて、自らの暮らす土地を盛り上げようとする情熱を持った人々の姿だった。終演の瞬間、客席から湧き上がった拍手と歓声は、ただの称賛ではなく、舞台と観客が一緒になって過ごした時間への感謝の気持ちのように感じられた。

そこには境界線がなく、舞台も客席も、音楽も人生も、ひとつに溶け合っていた。《愛の妙薬》は、恋のドタバタを描いた軽やかな喜劇でありながら、「人生に本当に大切なものは何か」を問いかける、どこか人生の真実に触れるようなメッセージを秘めている。今回の公演は、その本質が、声によって、表情によって、空気によって、美しく伝わってきた。観終えたあと、心が少し軽く、少しやさしくなっていた。まるで舞台上で語られた「妙薬」が、ほんの少し、自分の中にも効いたような気がした。そんな幸せなひとときをくれたこの公演に、心からの拍手を送りたい。(公益財団法人さわかみオペラ芸術振興財団|統括責任者:山田純)
公演名
青森オペラ「愛の妙薬」
開催日程
2025年5月24日
開催会場
弘前市民会館大ホール
公演内容
全2幕/原語上演/日本語字幕付き
主な出演
アディーナ:竹村真実、ネモリーノ:中村祐哉、ベルコーレ:市川宥一郎、ドゥルカマーラ:白石陽大、ジャンネッタ:川並和香、合唱:コーロ・クアトロミッレ、ピアノ:清水綾、指揮者:山崎隆之(さわかみオペラ芸術振興財団)、演出:武井基治(さわかみオペラ芸術振興財団)、合唱指導:松中哲平(さわかみオペラ芸術振興財団)